東日本大震災の被害状況はまだ全貌が見えてきていません。そして福島第一原発の人類の歴史に刻まれるであろう大事故は未だ危機的な状況が続いており、周辺住民の生活はもちろん、日本経済への影響は日に日に深刻さを増してきています。東京電力、そして国の対応は後手後手にまわっており、被害状況が隠し切れないほど大きくなるにつれ、国家の国民に対する隠蔽体質が明らかになってきています。今はとにかく、全国民が力を合わせて、この未曾有の危機を乗り切ることが最優先ではありますが、事態が落ち着いてきた段階で、私達国民一人一人が、この日本という国が大きく変わるための行動を自らの意思でとっていかなくてはならないと強く感じています。今回の震災は、日本という国にとって、明治維新、そして第二次世界大戦敗戦に続く、大きなターニングポイントとなる気がします。
1年ほど前に読んだ五木寛之氏の「人間の覚悟」(新潮新書2008.11.20)。
今、その言葉が自分の心に深く突き刺さってきていています。
経済が、絆が、国が壊れていく。ついに「覚悟」をきめる時が来た。 〜帯より〜
〜以下、「覚悟するということ 序に代えて」より抜粋〜
そろそろ覚悟をきめなければならない。「覚悟」とはあきらめることであり、「明らかに究める」こと。希望でも、絶望でもなく、事実を真正面から受けとめることである。これから数十年は続くであろう下山の時代の中で、国家にも。人の絆にも頼ることなく、人はどのように自分の人生と向き合えばいいのか。
国を愛し、国に保護されてはいるが、最後まで国が国民を守ってくれる、などと思ってはいけない。国に頼らない、という覚悟をきめる必要があるのである。
国民としての義務ははたしつつ、国によりかからない覚悟、最後のところで国は私たちを守ってはくれない、と「諦める」ことこそ、私たちがいま覚悟しなければならないことの一つだ。
お金を銀行に預けて頼りにしていられる時代ではない。年金もおまかせでもらえるわえではない。
子供の教育は学校がしてくれる、などの呑気なことを考えているわけにはいかない。
高齢者に優しい社会などない、と覚悟すべきだ。老人は若者に嫌われるものだ、と覚悟してそこから共存の道をさぐるしかないのである。
健康、などは幻想にすぎないと「諦め」よう。プロの医師といえども、すべておまかせではだめだ。入院した患者は囚人である、と覚悟する必要がある。
熱愛もいずれはさめる。さめた後に大事なものが残るような恋愛を考えよう。
遺産をのこせば必ず争いがおきるものだと覚悟すべきだろう。友情もお金がからむといびつになる。
無償の善意はなかなか人に伝わらないものだ。むしろ警戒されるときもある。隠れた善行も、それに対する善いむくいなど期待しないほうがいい。善意が悪意でむくわれることのほうが多いのが世の中だ。
〜以下、「最終章 人間の覚悟」より抜粋〜
私の考えでは、悪人も善人もいるけれども、とりあえず生きているということで、人間は生まれた目的の大半は果たしている、存在する、生存していくこと自体に意味があるのだ、と。
生きていることの大変さに気がつくと、そこから感謝する気持ち、自分の命を尊敬する気持ちも生まれてくるのではないでしょうか。
生きているだけで人は値打ちがある、そう感じられなければ、『罪と罰』のように、生きている価値のない人間は殺してもいいのだという発想になっていきます。生まれて、生きて、老いて死んでいく、それをすべてやるということに価値があるのだと思うのです。
人が身をよじるような苦しみや悲しみも、結局どこまで行っても他の人に代わってもらうことはできません。全ては自分一人で引き受けなければならないのです。
キリストも、ブッダも、そして親鸞も同じようなことを言っていますが、自分の親もきょうだいも、夫婦もこどもも、自分の一部ではない。むしろすべての人々が兄弟、家族であると考える。それは逆に人間は最後は一人という考え方と同じです。 人生は孤独で憂いに満ちています。あらかじめ失うとわかったものしか愛せません。
ブッダが「天上天下唯我独尊」と言ったように、自分はだれも代わることのできないたった一人の存在だから尊いのです。 そのことは上り坂の時代でも、下り坂の時代でも変わりません。この先が、「地獄」であっても、極楽であっても、です。
生きることの大変さと儚さを胸に、この一日一日を感謝して生きていくしかない。
そう覚悟しているのです。
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